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北極に眠るウイルスが目を覚ますとき

シベリアの鹿と男児の死
バイオテロにも使用されることがある炭疽菌をご存知でしょうか。これは世界で初めて疾病要因になることが証明された細菌です。
2016年、シベリアのヤマル半島という極地で暮らしていた男児が、この細菌に感染して亡くなりました。テロが起きたわけではありません。知らないうちに大気中に放出されていたのです。
遡ること75年前、同じ地域で死んだ鹿が地中の永久凍土に眠っていました。その鹿の体内で、この病原菌は生き続けていたのです。
男児が亡くなった年は記録的な熱波がシベリアを襲い、永久凍土の一部が溶け出していました。そして宿を失った病原菌が人間の生息域をさまよい、運悪く男児が犠牲となりました。
シベリアにおける鹿と男児の75年の年月を隔てた2つの死は、私たちが直感的には理解しずらい、細菌の生を知る契機となります。生命活動を現実的にとらえにくい永久凍土の下層には、未知の極小微生物が生息しています。たとえば米国と中国の研究者たちは、チベット高原の巨大な氷床から33種類のウイルスを発見しています。
海氷面積と感染症の因果関係
近年、アザラシの異常な大量死が何度も確認されています。その主因はPDV(アザラシステンパーウィルス)への感染です。
2000年以降、海洋生物のPDV感染が広がって何度かピークを迎えています。暴露と感染激増が見られるのは、北極の海氷面積が減少した後です。氷が溶けることで、北極海と北太平洋や北大西洋に生息する海洋生物エリアに新たな海路ができます。そしてPDVのような病原体が、さまざまな個体群間を移動する機会が増えている可能性が指摘されています。
スイスの連邦森林降雪土研究所(WSL)では、アルプスや北極、南極の永久凍土に生息する極小生物の生態を研究しています。同研究所のベアト・フレイ氏は、「これらの生物が、低温環境下で活性化できる特定の代謝・細胞構造を持っていることを発見した」と語っています。
2005年にはNASAの研究者たちは、アラスカの氷に3万2000年の間閉じ込められていた細菌を蘇生させることに成功しました。さらに2014年には、フランスの研究者たちがシベリアの凍土で3万年の年月を過ごしていたウイルスを蘇生させました。
ウイルスと細菌、海洋生物と人間の連鎖
北極海周辺には、多くの海洋哺乳類が集まってきます。温暖化による気温上昇で氷の溶解が進み、このエリアが眠りから覚めたウイルスや細菌による感染の”るつぼ”になっているかもしれないと指摘する研究者もいます。
地球にいま起きている異変が、すぐさまCovid-19のように次々と人間社会を襲うなどと短絡化するつもりはありません。ただ私たちが理解しておかなければならないのは、このまま温暖化が加速すると、ほぼ確実に永久凍土の中にいる微生物が大気中に放出され、活性化する可能性が高いということです。
そうなったとき一体何が起きるかは、まだ誰にもわかりません。多くの微生物の正体がわかっていないのですから。
新型コロナウイルスの由来よりも重要なこと
新型コロナウイルスが中国の武漢研究所から流出したものではないかとの説は、今も根強く残っていますね。特に米国は多分に政治的な思惑も含め、追求をつづけています。
世界中が新型コロナウイルスによって苦しみと恐怖を味わっているので、私たちは俯瞰して問題をとらえることが難しくなっています。しかしこのウイルスがどこから来ていようと、近年発生しているウイルスの多くは野生種由来なのは事実です。
ではなぜ野生種由来のウイルスが増えているのか。それは絶滅種が増え、絶滅を危惧される生物の生息域が狭まることで、人間社会と野生種の身体の中にいるウイルスの接触機会が増えているからです。
この原稿を書いている現時点において、カリフォルニア州で史上最大規模の山火事が起きています。トルコやギリシャでも山火事で莫大な被害が発生しています。アマゾンの熱帯雨林は地球最大の二酸化炭素吸収源ですが、山火事によって近いうちにアマゾンから発生する二酸化炭素の量が、吸収量を上回るという予測も出ています。
気候正義に取り組む組織『ザ・リープ』共同創設者のナオミ・クラインの言葉を借りれば、地球という私たち全員の大きな家が燃え盛っているのです。
この猛烈な熱が極地にも及ぶことで、野生種由来のウイルスの脅威は、やがて氷床由来の脅威へと拡大していくかもしれません。
新型コロナウイルスが私たちに伝えようとしていることは何なのか。立ち止まって考え、地球全体と次世代のために行動を起こすための猶予は、それほど長く残されていません。
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参考資料:swissinfo.ch , scientific reports 8 Article number:9269
Science Direct volume5,October 2018 NATIONAL GEOGRAPHIC 2019,11,12