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被災地の復興策を「逆効果の応急処置」にしないために

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(注)矢印の間にある「同」は「Aが上がれば(下がれば)Bも上がる(下がる)」因果関係、
矢印の間にある「逆」は「Aが上がれば(下がれば)Bは下がる(上がる)」因果関係を示す。
この震災が一つの時代の終わりを象徴していること、
それゆえに新たな始まりであること(そうありたいこと)を、
薄々か明確かはともかく、感じている人は多いと思う。
しかし終わりを始まりにつなげるためには、
この緊急事態であっても忘れてはならない過去からの課題がある。
それはGDPの2倍に膨らんだ日本の債務だ。
しかも税収より国債発行額が断然多い状況が続いている現実だ。
これが家庭だったら、
借金が年収の倍あるのに、
今なお収入よりたくさん金を使い続けているということだ。
そんな家庭を、まともだと思う人はいないだろう。
日本は、そういう「まともじゃない状況」が続く日常の中で、
歴史的な大災害に見舞われて、空前の大借金をせざるを得なくなっている。
図の青い矢印でつないだ循環は、
当面は避けられない補正予算と赤字国債の発行を、
それとつながる因果関係でとらえたものだ。
システム図に決まった正解はないけれど、
ここでは緊急性が高いことから出てくる「補正予算」を、
「合意形成(のしやすさ)」とつないでみた。
たとえば、
国民一人あたり10万円を復興のためにカンパしてもらって10兆円集めるより、
復興目的に特化して期間限定で消費税を20%にするより、
国債発行を前提に補正予算を組むほうが早い。
そのぶん復興は急ピッチで進む(もちろん、これは早く進める必要がある)けれど、
その結果さらに国の借金が続くことになる。
これはシステムダイナミクスでいう「逆効果の応急処置」そのものだ。
しばらくの間は問題は顕在化しないけれど、
いずれ今も深刻な財政赤字がいよいよ極限に近づいていく。
よく”財政赤字だいじょうぶ派”が挙げるのは、
国の借金を補って余りある国民の個人資産だ。
しかし昨年度並みの支出が続くと、2014年にはついに国の借金額は
国民資産の総額を超えてしまう。
おそらくそうなる前に、
既に世界から危ぶまれ始めている日本国債の信用は落ちるだろう。
つまり不可欠な緊急措置としての財政支出が常態化すると、
世界が日本そのものを危険視するようになる(原発ではなく国自体を)。
それが円の価値を下げ、国債暴落のリスクを高める・・・という
国家破綻の流れを生む因果を考えたのが茶色の矢印。
他方、国が復興を背負うのは一見当たり前のようで、
地方分権に逆行する国家依存を強めてしまう。
これも緊急対応としてはやむを得ないが、
常態化すれば被災地域の自立が阻まれ、
借金漬けの国がますます重荷を背負うことになる。
これが黄色の矢印で示した「持続しない救済ループ」だ。
茶色の矢印でつないだ因果関係によって
青い矢印でつないだ「応急処置」が逆効果になる前に、
茶色の矢印の流れを好循環へと反転させなければならない。
「補正予算&赤字国債」が増えると「財政赤字」も増えるけど、
この因果は減るほうにも正の関係を示す。
つまり「補正予算&赤字国債」が減れば「財政赤字」も減る(方向に進む)。
それが世界の日本に対する復興への懸念を期待に変える契機となれば、
もともと世界有数の経済規模と、
社会的な安定性およびインフラをもつ日本の底力が生きてくる。
(これが茶色の矢印が望ましい流れに反転していくイメージ)
世界から新しい日本の創造に向けて人・モノ・金・情報が集まる。
国家の危機を乗り越えて新しいビジョンに向かう国民の意志も力強いものになる。
こうした流れで「補正予算&赤字国債」への依存を減らす因果に反転させることで、
茶色で示した「国家破綻ループ」は「国家創造ループ」に変わる。
「補正予算&赤字国債」減少の流れは、
黄色い矢印の「持続しない救済ループ」にも影響を与える。
国の借金頼みから脱して「地方の自活力」が高まることは、
「持続性のある発展」の可能性を高める。
その流れが顕在化するほど、国の借金への依存はさらに低くなるだろう。
こうして「持続しない救済ループ」は、
地方主権を基本とする「持続する発展ループ」に変わる。
逆効果の応急処置が作動しはじめる前に、
中長期的な資金確保のビジョンを立てて動き出さなければならない。
そうしないと被災地を復興させるために日本が没落し、
けっきょく被災地の復興が頓挫することになる。
ほんとうの被災地復興は、
日本の再生と表裏一体であることを忘れてはいけないと思う。
その意味でもわれわれは、被災した多くの人々と運命共同体なのであり、
同じ問題の中を生きている細胞の一つ一つなのだ。

「有事のマネジメント」を問いなおす

海江田経産相が福島原発への放水準備を進める東京消防庁の署員に対して、
〝恫喝〟まがいの発言をしたらしきことが波紋を広げた。
これ自体は真相がわからないのでスルーするけれど、
ボクはここで改めて問い直さなければならないことがあると思う。
それは、有事のマネジメントだ。
そもそも「有事」とは何か。実はこれが曖昧だ。
慣習的には軍事用語として使われており、法律で定義されている言葉ではない。
この事実の中に、今回の震災と津波で奪われた多くの尊い命、今も苦しむ多くの人々に対して、
被災者ではない者が直視するべき重大なテーマが潜んでいる。
有事は軍事用語ではあるけれど、一方では今回のような大規模災害などの非常事態にも
当てはめられている。
災害救助法や災害対策基本法は「有事関連法」と位置付けられているのだ。
そして、より「軍事的な有事」を想定した法律・・・国民保護法は、
災害対策基本法をベースにしてつくられているようだ。
ここに、この国の「有事」のとらえ方に関する捻じれが見て取れる。
軍事的な有事とは本来、その職務に就く者が自己の命をかけて働く局面を生む。
今まさにリビアに爆撃をしかけている米軍の最高指揮官は、
言うまでもなくオバマ大統領だ。
大統領が任務に就く兵士の生命に逡巡し、それが判断に影響することがあるだろうか。
有事は軍事用語なのに、日本では実態的には災害が主であろう。
ウィキペディアに掲載されている「近年発生した主な有事事態」とみると、
阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、アメリカ同時多発テロ事件、
スマトラ島沖地震、そして今回の東北地方太平洋沖地震(ウィキペディア表記のまま)
となっている。
実態的にみた日本の有事は、従事者の命の危険を低く見積もっている。
しかし、そうではないのだということが今回、明らかになった。
この現実に対応するリーダーシップも合意形成のための基準も、
極めて不十分な社会の中で我々は生きている。
有事とはその種類にかかわらず、
常に現場従事者が自分の命と引き換えに任務を遂行せざるを得ない局面がある。
だから我々は、莫大な防衛費を支払うことに(詳細な議論は別として)合意している。
どんなに公務員の削減が唱えられても、警察や消防署員を減らせという声は挙がらない。
彼らの任務の公益的な重大性に合意し、コスト負担を承知しているからではないか。
だからもういちど、命がけの仕事への敬意と協働に目覚めるべきだ。
それは金銭的な負担だけにとどまらない。
阪神・淡路大震災のとき、
日本の公道が航空機の滑走路として使用できない構造の問題が指摘された。
台湾大地震では多くの市民が自宅に貯水タンクを保有して水を確保していたが、
自国や隣国のケーススタディが今回も活かされてはいない。
活かされない理由がある。
それは、有事のマネジメントに欠かせない強制力が発揮されていないことだ。
このことと、有事=命がけの仕事が発生する・・・ことへの無自覚とは、
密接な関係があるように思う。
一人でも多くの人々の命を救うために命を投げ打たんとする人の命を
できるかぎり無駄にしないために、ただそれだけのために、
たとえば道路を拡張する事に同意して立ち退くこと。
たとえば多少の継続的な出費を覚悟で貯水タンクを設けること。
そうしたことを、受け入れなくてはならない。
それがささやかな協働の一端ではないだろうか。
ウィキペディアの事例には挙げられていないけれど、
日本人として絶対に忘れてはならない有事のことを少し調べてみた。
第二次世界大戦における沖縄戦だ。
昭和19年10月の沖縄大空襲から翌20年7月2日の米軍による沖縄作戦終了宣言まで、
米軍を含む兵士を除く一般市民の死亡者は推定10万人とされる。
この約8カ月間にわたる沖縄戦の死亡者を一カ月あたりにすると1万2500人。
東北関東大震災の発生から1週間での死者・行方不明者の推定が1万5000人だ。
沖縄戦1カ月ぶんの惨事が1週間に凝縮されて起きているのだ。
これを有事と呼ばずして何と呼ぼうか。
命を賭けて働く人々の力が緊急で必要であることも論を待たないだろう。
だからこそ生かされている日本人として、有事の概念を自らに問い直したい。
そして有事のマネジメントの当事者として、
われわれ一人ひとりが協働する社会を作らねばならない。

世界の「日本人賞賛」を喜ぶことへの違和感

世界が日本人の礼節や協調性に驚き、賞賛している。
それに勇気づけられ、「がんばろう」的なメッセージのシェアが広がっている。
ボクは少し、この風潮に違和感を抱いている。
世界からの応援を斜に構えてみるわけではない。
ありがたいことだし励みにもなる。
あらためて、「そうか、そんなふうに見えるんだ」とも思う。
しかし、この災害が別のどこかの国で起きて、
とんでもない略奪が続いているとしよう。
そのとき世界は、「まったくとんでもない国だ」と報じるだろうか。
まさか。
つまり言いたいのは、そもそも日本は応援されているということだ。
だから、ささやかな美徳が誇張されても不思議ではない。
むしろ賞賛されようがされまいが、
「このくらいの災難は連帯して乗り越えることができるのだ!」
というメッセージを、もっとこちらから発信するべきではないか。
ある種の演出も含め、世界にアピールするべきだ。
そして、これは日本人が苦手とするところである。
しかし日本の復興に期待と不安が入り交じる世界に対して、
これは絶対に必要な要素なのだ。
なぜならば、中長期的な復興に向けて最大の課題となるのは、
物資ではなく資金だから。
震災とは無関係に、もとより東北の自治体は財政難である。
それを全面的に支援すべき国の財政がどうであるかは言うまでもない。
だから、世界から金を集めてくる必要がある。経済をダイナミックに動かす必要がある。
あえて言うけれど、同情ではなく金を引っ張り込む勢いと戦略が、
この国の復興には絶対に必要だ。
そのためには、
日本が地球上でいち早く「次の世界」への扉を開けようとしている姿勢を、
世界に明確に示していかねばならない。
もとより日本の強みである省エネ技術や高度なインフラ、そして勤勉さと人の絆、
そういったリソースを効率的にフル活用すれば、
この惑星の新しい規範づくりをリードできる。
地産地消をベースにした循環型の経済システム、自然エネルギーの大胆な導入、
環境負荷の少ない公共交通システムや電気自動車の普及。
地域との恊働による世界一ハイレベルな公教育、
技術とホスピタリティが高いレベルで両立した医療と福祉。
それを、すぐに全部実現させろという話ではない。
明確なビジョンをもって、大胆に新しい時代に舵を切るということだ。
それが、世界の同情ではなく金を集める契機になる。
未だどの国も、新しい世界の在り方、
つまり20世紀型資本主義の次を見出していないのだから。
そこで芽生える「やはり日本はスゴい」こそが、ほんとうの賞賛ではないか。
だから、ボクは今の世界からの賞賛を、有り難く保留しておきたい。
今回の震災・・・、これは第二の戦後だと言ったり書いたりしたら、
何人もの方から同意とともに次のようなコメントをもらった。
「ただ戦後と違うのは、世界が応援してくれていること」
たしかに、そうだ。しかし、だからこそ思い出すべきことがある。
世界を敵に回すことで破滅的な局面を招いた戦後は、
それゆえに外圧によって民主化というシナリオが敷かれたのだ。
だから日本は変わった。なんだかんだ副作用も含め問題はあるにせよ、
戦時体制やそれ以前の社会よりは、ずっと進化した社会ができた。
変えてくれた、そのおかげで。
今度は世界が応援してくれている。
ただしそれは日本の大苦境に手を差し伸べてくれるものであって、
未来に向けた日本の変容をサポートしてくれるものではない。
このことを、われわれは絶対に忘れてはいけない。
世界を敵にまわした結果である第一の戦後のように、
誰かが外からやって来て変えてくれるわけではないのだ。
日本が今の日本国として統一されて以降、
われわれは一度も自分たちの手で価値観を覆し、
新たなシステムをつくりだすという経験をしていない。
和をもって尊しとなす文化は未来に向けた大きな可能性を秘めているが、
時には安易な合意に流れ、
それが原子力発電所の一カ所集中などという愚行にもつながる。
これから日本を復興させるには、
ただ単に日本人のもっている良さを思い出し、活かすことだけでは不十分だ。
日本人のDNAを思い出すのと同じくらい、DNAを更新していくことも大切だ、
それを必要とするくらい、大きな世界史レベルの変容の時代を、
いまわれわれは生きているのだと思う。

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不安の増幅を反転させる「報告」の一工夫

ポートトークに次いでラポールトークについて書くつもりだったが、
もういちどレポートトークの続きを書くことにする。
原発事故による農産物への影響が表面化し、
主として枝野官房長官からの「ただちに健康に影響することはない」
というフレーズが一人歩きしているからだ。
おそらく専門機関がそのように説明し、
それを枝野氏がかなり「写実的に」伝えているのではないかと思う。
しかし情報の受け手側からみて、
写実的であっても具体的ではないことが問題だ。
十分なレポートトークになっていないのだ。
ここを一工夫するだけで、結果として情報の質は大いに変わる。
たとえばあなたが、
目的地への近道である大渓谷の吊り橋を一人で渡ろうとしているとしよう。
今まさに吊り橋に足を踏み入れようとしたとき、
向こう岸から誰かに声をかけられた。
「気をつけろ。この橋は危険な状態なんだ!」
「えっ、崩れてしまうかもしれないの?」
「いや、ただちに崩れ落ちるわけではない」
そう言われて、安心して近道である吊り橋を渡るか、
それとも遠回りしてでも安全な道を選ぶか。
ほとんどの人は、この吊り橋を避けるはずだ。
「ただちに崩れ落ちるわけではない」・・・と言われたとき、
人は崩れ落ちる橋のイメージや危険を想起する。
したがって十分なデータにもとづいて消費者を安心させることを意図するなら、
枝野氏の「ただちに健康に影響することはない」は、コミュニケーションの目的を達成できない。
この有事における枝野氏のスポークスマンとしての表現スタイルは、
私見やレトリックを排してシンプルに伝えられていると思う。
その点については、ボクは好意的に受け止めている。
しかし専門家や関係機関からの枝野氏への報告が曖昧だと、
その曖昧さを写実的に伝えるかぎり国民への説明も曖昧になる。
「ただちに健康に影響することはない」・・・は、まさにその象徴だ。
不安に駆られている人々は、
「このままだと、いずれ影響するんだろうな」
「やっぱり食べるべきではないんだ」
と、そのように受け止めるのが通常だろう。
「・・・産の○○(食品名)は、
 □□(具体的な量)を△△(期間)にわたって食べても安全です」
それが実証されているならば、これがレポートトークの要だ。
その上で客観的なデータにもとづいて理由を説明すればいい。
メディアの増幅器としての機能を考えると、
受け取り方に個人差があるという当たり前の不確定要素を考慮したとしても、
表現の一工夫による効果は大きいと思う。
そしてメディア側にも、
安易な言葉の一人歩きを抑制する聴き方、伝え方を心がけてほしい。
メディアがその姿勢をもって報道にあたることは、
結果として報道内容の多様性にもつながるのではないだろうか。

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修羅場で活きるレポートトーク

事実を的確に伝える、迅速な指示を出す。
こんなときのコミュニケーションは、
まず結論を先に伝えるレポートトークが基本だ。
現在、東北を中心に日本のあちこちに修羅場が生まれている。
言わなければならないこと、伝えたいことが山ほどある。
だからこそ一人一人の立場において、
レポートトークの基本を押さえておきたい。
混乱するとコミュニケーションが混乱する。
これを記者発表などさまざまな場面で、目の当たりにする機会が多い。
コミュニケーションの混乱は、混乱に拍車をかける。
するとますますコミュニケーションが混乱して、
負の連鎖が加速していく。
混乱は既に複数の要素が絡んだシステムになっている。
なので混乱をどうにかしようと思うと、思考が混乱しやすい。
これは負の連鎖を強めかねないので、混乱に介入するという視点はお勧めしない。
そこで、「今ここでコミュニケーションの何を工夫するか」という視点をもつ。
混乱をどうするかより、コミュニケーション、
それも今ここで交わしているコミュニケーションのみを考える。
すると、かなり思考の対象が具体化する。
まず明確にしたいこと。それは、ここでのコミュニケーションの最優先目的だ。
目的ではなく、最優先目的。
たとえば駅員さんが、駅の改札が混乱しているので臨時の整理券を配り、
下車駅で運賃を支払うことを求めているとしよう。
最優先目的は、混乱を最小限に抑えて乗降をスムーズにすることだ。
「切符は要りません。駅員が整理券を渡します。運賃は降りる駅で払ってください」
伝えることは、これだけでいい。
「混雑でご迷惑をおかけして申し訳ありません。ただいま券売機にたくさんの方が並んで
いらっしゃいますので、整理券をお配りしています・・・・」
こんなふうに謝罪したり事情を話す必要はない。
伝えたい相手は、話を聞きにくい状況にあるのだ。
一文を短く。できれば一メッセージを30〜40文字以内にする。
ワープロソフトで原稿を書くとき、改行なしで一つの意図を伝えるイメージだ。
とかく日本人は、
ささくれ立った相手をなだめようと、あれこれ気を回す。
そうすると返って相手のささくれに油を注いでしまうことになる。
そんな無駄なことはせず、油は被災地にまわそう。
否、今こそもっと心を通い合わせるコミュニケーションも必要ではないのか?
そんな声が聞こえてきそうだ。
もちろん。だから次回は、
レポートトークとは対照的なラポールトークについて書くことにする。

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