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水問題から探るコンシャスビジネス

今週は世界水週間です。

日本にいると特別な災害が発生しないかぎり水の有り難さを実感することが難しいけれど、世界全体を見ると水不足は日々の現実。

国連総会のトム・ピーターソン議長は、世界の気候問題と水資源問題こそが「われわれの存在の基本原理」と語っています。ここでいう「われわれ」とは、もちろんこれを書いている私や、読んでくださっている「あなた」を含む人類という意味でしょう。

基本原理であるからには、待ったなしの気候と水の問題にアプローチすることなくして、国連が掲げるSDGs(2030年に向けた持続可能な開発目標・・・※17のゴールと169のアクションターゲット)の成功はあり得ないということです。

水問題は国際紛争によって引き起こされる側面があります。たとえばシリアでは、給水ポンプの破壊や水資源の汚染が意図的に行われています。それによって衛生状態の悪化が加速し、伝染病が蔓延することで混乱が広がります。水が大量殺戮の武器になるということは、日本では考えにくいけれど現実です。

水問題はビジネスに絡む産業的な問題でもあります。たとえば電気自動車に欠かせない金属素材コバルトの主要産地であるコンゴは、内乱と干ばつのダブルパンチで水不足が深刻化しています。このような状態で安定的なコバルト生産が不安視されており、成長の期待されている電気自動車の生産に大きな影響が及ぶ可能性があります。

こうした複雑な状況のなかで、水という生命にとっての「基本原理」にビジネスの立場から何ができるか。

上記にふれた衛生問題、そして産業のイノベーションという観点を加えて、9月26日の夜

SDGs(持続可能な開発目標)に向けたビジネスとリーダーシップ

を開催します。

みなさんのご参加をおまちしています。

なぜ「同情」よりも「金」なのか?

その昔、幼い安達裕美は、どうして「同情するなら金をくれ!」と言ったのでしょう。

あのとき彼女が言った「同情」は、「他人目線で可哀想だと思われたって、どうしようもない」という気にさせるような、他人から寄せられる情(なさけ)だったのではないでしょうか。

可哀想だと感じているのは事実だけれど、それは自分が経験していることではないから所詮は他人事。テレビのニュースに映る遠い国の戦乱に苦しむ人々を憐れむのと、幼い安達裕美を憐れむ感情は同じ種類のもの。少なくとも情けをかけられた当人には、そう感じられるものだったろうと思います。

これは英語だとsympathy(可哀想だと思う気持ち、同情)がもたらした結果でしょう。

ネイティブでも区別は案外むつかしいらしいとも聞きますが、似て非なる言葉がempathy(共感)です。

sym(同調する~)に対して、emと言い接頭語は「中へ~」という意味があるので、empathyは相手の感情を実際に味わっているというニュアンスになります。いくつかの解説をみてみると、同じ経験をしたことがある人が、他者の苦しみなど感情を共有する・・・共感、ということで、他人目線のsympathy=同情とは区別されるようです。

さらに心理学や臨床現場で重視されるempathyは、「中へ~」によって可能な深い理解と、それにもとづく相手への手助けが含まれます。EQ(感情リテラシー)において共感が不可欠の要素として位置づけられるのも、こうした行動の伴うものだからです。

それでは、自分が相手と同じ経験をしていないかぎりはsympathyを寄せることはできても、empathyをもつことはできないのでしょうか。そう結論づけてしまったら、社会の健全な発展も組織変革もないだろう、というのが私の立場です。

他人目線で安達裕美に拒絶される同情ではなく、少女の心の中にある共感から生まれてくるもの。それを探求していきたいと思います。

奇跡のバーディーを生んだ「停止する力」

全米オープン、松山英樹選手は残念だったけれど、
ジャスティン・トーマス選手のプレーにも賛辞を贈りたいです。

カップ横に停止したボール、誰もがそう思った12秒後にボールが動いてカップイン。

ゴルフのルールでは、
「不当に遅れることなくボールに歩み寄る時間に加え、球が止まっているかどうかを確かめるためにさらに10秒、待つことができる」・・・とされているそう。

米国のサイトGOLF.comが「究極の待機」と絶賛したトーマス選手の落ち着き。

ゴルフはメンタルの競技とよく言われますが、
彼の「停止する力」が、それを物語っていると思った瞬間でした。

繋がりやすい人とばかり、繋がる危険について

ユーザーの閲覧履歴にもとづいて、その人が見たい(と検索エンジンが判断する)情報を取捨選択して届ける。Googleで言うところの“パーソナライズド・サーチ”が、前回のブログで取り上げたような分断を促しているという指摘があります。

前回取り上げたのは、米国のブロガーたちがリベラル派同士、保守派同士でリンクされる傾向が顕著で、両派のブログのつながりが極めてすくない・・・という内容でした。
 
たとえばマインドフルネスに関心のある人には関連書籍の新刊情報が早く届き、〇〇ワークショップの様子がシェアされ、「マインドフルネス、すごい盛り上がってますね」があいさつ代わりになったりします。

ここにあるのは、1964年の東京五輪前の日本みたいな国民的盛り上がり?なわけはないですよね。でも盛り上がっている塊のなかにいる人にとっては、東洋の魔女の応援で銭湯から客が消えた盛り上がりに負けないかもしれません。 

金融情報だろうがAIだろうが、〝プ女子“効果で復活著しいプロレスであろうが、同じ関心を持つ人々の塊のなかでは、「〇〇〇、すごい盛り上がってますね」・・・になります。こうしてたくさんの塊ができて、人々がそれぞれの関心のなかで集団として孤立していきます。なんていうことを「フィルターバブル」という表現で伝えたのが、2012年に『閉じこもるインターネット』(早川書房)という本を出したイーライ・パリサーでした。

当時、クリス・アンダーソン(元WIRED編集長、現3Dロボティックス社CEO)さえも絶賛したこの論点には、「パーソナライゼーションの影響は軽微」、「むしろフィルターは各自の好みを拡張する方向に作用している」といった反論も少なくありません。

要するに明確な答えは出ていないのですが、私はフィルターが各自の好みを拡張している・・・という反論に興味を持ちました。たとえば同じフィルターバブルのなかにいる人でも、自分とカバーする範囲が完全に重なり合っているわけではありません。一つのバブルのなかにも、とても濃いつながりの人もいれば薄いつながりの人もいます。飛び交う情報に対してオープンな好奇心をもっていれば、同じバブルにいる人の「自分と重なり合っていない情報」が、自分の世界を広げるきっかけを作ってくれるかもしれません。

一方、「そんなことは知っている」「これは興味ない」「関係ない」・・・といったクローズドな好奇心だと、フィルターバブルは孤立を促すでしょう。

イーライ・パリサーはフィルターバブルを、「検索エンジンのアルゴリズムによりもたらされる、情報の個人的生態系」と定義しています(Wikipedia)。この生態系が閉じてしまうと、生命は孤立に向かい生存が危うくなると思います。生態系は自立したもの同士の繋がりであり、孤立したものたちが個別に存在しているわけではないから。

テクノロジーがもたらしているフィルターバブル自体の是非は、あまり問題ではないと私は思います。それよりも、「いま自分はどんなフィルターを通じて物事をとらえているのだろう」と、問いかける姿勢が大切ではないでしょうか。
それによって同じバブルのなかにいる人から、違うバブルに旅するきっかけがもらえます。そして違うバブルで人と出会い、新たな繋がりが生まれてきます。

ときに摩擦も高まるでしょう。「なんで言語が通じないんだろう」という戸惑いも感じるでしょう。なかなか合意が得られず、嫌になることもあるでしょう。しかしこの複雑系が極まった現代において、多様な視点を分かち合うことは、簡単に答えを出すことより優先されるべき局面が多いと思います。

マインドフルネス?ぜんぜん知らないですよ、田舎の親戚や昔の同級生のほとんどは。そして恐らく、私も知らないのです。生まれ故郷の小さな町でどんどん高齢化が進み、学校の統廃合が進んでいるなかでは何が重大な問題で、どんなことにいちばん惹かれるかについて。想像や上辺の知識と、実際そのシステムに浸ってこそわかることは、まったく違うはずだから。

自分がいくつかのフィルターバブルに影響を受けて、それがたとえばこの文章にも反映されている。その限界に対して謙虚でないと、やばそうです。

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7月1日 13:00 – 19:00
マインドフルネス×DiSCの実験的ワークショップ

つながる力を鍛える< マインドフルリレーションシップセミナー >

つながる力とネガティブケイパビリティ

これは米国のリベラル派の人たちのブログ(青)と保守派の人たちとのブログ(赤)が、それぞれどのようにリンクされているかを示したものです。

下記の本に紹介されているもので、著者は人々のつながり(社会的ネットワーク)が健康に及ぼす影響についての研究で知られるニコラス・A・クリスタキス氏(医学博士。ハーバード大学医療社会学教授)ら。

リベラル派から保守派へのリンクはオレンジ、保守派からリベラル派へのリンクは紫で示されているのですが、わかりにくい(!)。そもそもリンクはリベラル派同士、保守派同士で埋め尽くされているからです。その意味では、政治思想と人々のつながりの関係が、とてもわかりやすいと言えます。

トランプ大統領の登場によって米国内の分断が進んでいるかの報道が目立ちますが、これを見ると、もともと分断されていると解釈することもできそうです。

このことが、ゴールデンウィークに読んだべつの本『ネガティブケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(帚木蓬生著 朝日選書)と、私のなかで化学反応を起こしました。

ネガティブケイパビリティとは、不確実なこと、曖昧な問題などを安易に解釈して“スッキリ”しようとせず、「わからないこと」や「どうしようもないこと」をそのまま受容する能力。人は直面することを意味づけして、物事や状況、他者などを理解(解釈)することで、”スッキリ”しようとする習性がある・・・と著者は述べています。政治の世界に広がるポピュリズムも、ビジネスに横行するマニュアルやハウツーを求める傾向も、たしかにそう考えると納得がいきませんか。

そこで冒頭のブログにもどります。青のつながりと赤のつながりは、スッキリわかりあえる気持ちの良いつながりなわけですね。異論をもつ相手は理解しづらい。でも実際に議論を交わせば、それなりに相手の言うことにも道理がありそうな気がする。だからといって自説を曲げたくはないし、こちらにだって正当な理由はいくつもある(と思っている)。違う色の人とつながっていると、いつもモヤモヤすることになってしまいます。

そういうのは不快だから、結論を導き出しやすい材料を適当にくっつけて相手にNGを突き付けます。こうして繋がりを断てば、”スッキリ”するわけですね。その結果、複雑で変動の激しい時代に不可欠な洞察、それを促す多様な視点が失われます。

関係性を大切にしよう、多様性を活かそうと、組織開発やコミュニティ開発の現場では唱えられています。しかしそれは簡単なことではないし、微妙な対立が同志と思われるような人々の間でも起きてきたりします。そこで必要なのは、解決できないということを受け入れる姿勢。わかり合えない人を否定するのではなく、わかり合えない状況をあるがままにホールドする能力。

そして、モヤモヤした関係のまま向き合い、できることをつづけていく。そうすることで時間が状況を変えていくこともあるでしょう。想定していなかった変数が、複雑なシステムに影響を及ぼし始めることもあるでしょう。他者を理解してうまくやっていくことは、誰とでも気持よく付き合えるようになることではない・・・。そう考えたほうが、地に足をつけて先に進めるような気がします。「わからない」「理解に苦しむ」という物事や他者への実感を、包容したまま今この瞬間に立つということ。

そうとらえると、まだ人間のなかに眠っている叡智の可能性が、少し見えてくるような気がします。ほんとにそうかなあと、モヤモヤしながらそう感じているわけですが。

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日本初、マインドフルネス×DiSCの実験的ワークショップを開催

7月1日(13:00-19:00 @目黒)
つながる力を鍛える~マインドフルリレーションシップ・セミナー~
※事前オンラインアセスメント付

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