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なぜ「同情」よりも「金」なのか?

その昔、幼い安達裕美は、どうして「同情するなら金をくれ!」と言ったのでしょう。

あのとき彼女が言った「同情」は、「他人目線で可哀想だと思われたって、どうしようもない」という気にさせるような、他人から寄せられる情(なさけ)だったのではないでしょうか。

可哀想だと感じているのは事実だけれど、それは自分が経験していることではないから所詮は他人事。テレビのニュースに映る遠い国の戦乱に苦しむ人々を憐れむのと、幼い安達裕美を憐れむ感情は同じ種類のもの。少なくとも情けをかけられた当人には、そう感じられるものだったろうと思います。

これは英語だとsympathy(可哀想だと思う気持ち、同情)がもたらした結果でしょう。

ネイティブでも区別は案外むつかしいらしいとも聞きますが、似て非なる言葉がempathy(共感)です。

sym(同調する~)に対して、emと言い接頭語は「中へ~」という意味があるので、empathyは相手の感情を実際に味わっているというニュアンスになります。いくつかの解説をみてみると、同じ経験をしたことがある人が、他者の苦しみなど感情を共有する・・・共感、ということで、他人目線のsympathy=同情とは区別されるようです。

さらに心理学や臨床現場で重視されるempathyは、「中へ~」によって可能な深い理解と、それにもとづく相手への手助けが含まれます。EQ(感情リテラシー)において共感が不可欠の要素として位置づけられるのも、こうした行動の伴うものだからです。

それでは、自分が相手と同じ経験をしていないかぎりはsympathyを寄せることはできても、empathyをもつことはできないのでしょうか。そう結論づけてしまったら、社会の健全な発展も組織変革もないだろう、というのが私の立場です。

他人目線で安達裕美に拒絶される同情ではなく、少女の心の中にある共感から生まれてくるもの。それを探求していきたいと思います。