スポーツにおけるコーチと、いわゆる“コーチングのコーチ”は違うの?一緒なの?
という質問を、ときどき受けることがあります。

私は“コーチングのコーチ”という意味不明な言葉とても苦手ですが(笑)、それはともかく、決まった正解はないんですよね。

そもそもスポーツのコーチといっても人によって解釈は違うでしょうし、それはビジネスや人生全般のコーチについても同様です。

ただ一般的にみて、スポーツのコーチは「監督」「先生」「指導者」といったニュアンスでとらえられることが多いのは事実。競泳の平井コーチやシンクロナイズドスイミングの井村コーチといった有名コーチも、選手たちから「先生」と呼ばれているように。

これは競技の専門家が「コーチ」になることが基本なので、技術指導の側面が多くなるスポーツの特性とも言えるでしょう。逆に、たとえば私が流通業の経営者やマネージャーをコーチする際、チェーンオペレーションや店舗開発について教えることはありません。知識や技術のインプットという側面が少ない(または、ほとんどない)“コーチング”を、こうしてスポーツにおけるそれと区別化しているのが国際コーチ連盟のとらえ方です。

ただ私個人は、もっと本質的な区別をしています。それはスポーツだからとかビジネスだからというのではなく、分野を超えた真のコーチングとそれ以外の区別です。

この考え方も国際コーチ連盟のコンピテンシーに沿ったものではあるのですが、コーチングにおいて重要なのは、行動を通して「成果」を出すことと「学習」を促すことです。言い換えると、ある特定のゴールを達成するためにコーチングをするのと同時に、そのゴールに向かう過程で様々な気づきを得ること。これを両立させていくことが、単に事柄ではなく、直面する事柄を包含する「人そのもの」に真摯に向き合うコーチングの存在理由だと考えています。

しかしここで難しいのは、目の前にあるゴールに到達するためにするべきことと、
より長いタームで成功をとらえた場合にするべきことが、必ずしも一致しない点。
むしろ矛盾することが少なくありません。

かつて松井秀喜さんが星陵高校の4番打者として、甲子園で全打席敬遠されて波紋を呼んだことがありました。1992年夏のことでした。これは相手チームの監督が、甲子園での勝利という目の前のゴールに全力を傾けた結果でしょう。しかしこの指示は、松井さんと共にプレーした二人の選手の人生に大きな影響を及ぼしました。一人は監督の指示どおり敬遠策を続けた相手チーム(明徳義塾)の投手。もう一人は、松井さんの後を打った星陵の5番打者。彼は全打席凡退で星陵敗北の戦犯扱いされ、その後の人生に尾を引いたことが伝えられています。

松井さんがあの当時、ちょうど今年の甲子園を湧かせた清宮選手のように圧倒的な存在だったのは間違いありません。したがって目の前の勝利を手にするためには、
明徳義塾の監督の判断は正しかったでしょう。しかしその先も続いていく彼らの人生の学びについて、この監督が考えていたとは私には思えません。

勝たせてやりたい、しかし勝っても負けても彼らの人生は続いていく・・・そこでどうするかという葛藤に苦しむことのない監督は、けっして“コーチング”はしていないのです。

もし結果的に同じ全打席敬遠という作戦を選ぶにせよ、選手自身がどうしたいか、松井というとてつもない相手にどう立ち向かいたいかを考えさせ、議論する場があったら。選手たち一人ひとりが、野球とは何か、フェアプレーとは何か、スポーツとは何で、勝利とは何なのかを、洞察する機会が少しでもあったならば。そこから結果として出てきた全打席敬遠だったら、それはまた違った影響を彼らに与えたはずです。

企業でも株主の期待を背負った経営者は、業績という目の前のゴールを現場のマネジメントに求めます。部門の数値を背負ったマネージャーたちは、部下たちの打率アップや勝利数を期待します。こうして、それぞれの評価が目の前のゴールへの到達度によって決まっていくことが圧倒的に多いのが現実です。

他方、その背後で多くの人々が疲れ果て、組織全体が病み、人と組織の健全な繋がりを感じられない状況が蔓延しています。

マスタリー(熟達)に向けた成長欲求。これは働く動機として欠かせない要素であることが、心理学で証明されています。人は自然に学ぼうとする生き物であることが、ここからもわかります。

たしかに業績は上げなければならないけれど、きょうの戦いは未来に何をもたらすのか。それを同時に問い続けるのが、コーチングマインドをもったリーダーだと思います。人も組織も、学習しつづけなければ未来の大きな変化には立ち向かえないのですから。