ICFが定めるコア・コンピテンシーでは、さまざまな実践力を支える言わば「コンピテンシーのためのコンピテンシー」として、「倫理」と「合意形成」を据えています。

倫理とは、コーチという仕事をするうえでの規範や姿勢を明文化したもの。合意形成とは、事務手続きから本質的な関係性に至るまで、あらゆる事柄についてクライアントと合意を交わすことを意味します。

これだけをとっても、非常に広範囲かつ深いところからコンピテンシーが定義されているのです。

倫理規定のなかには、「コーチング」と他の類似する専門職を区別する記載があります。ICFにおいては、コーチングという職業が何をするもので、何をしないものかが明確にされているのです。

物事を包含的にとらえる特性をもつ東洋的な発想からすれば、「そんなに細かく分けることはできないのでは」という感覚になりやすいと思われます。

たとえば、「セラピー」は過去の痛みを癒し、人生で生じているさまざまな障害を修復していくもの(専門職それぞれの定義自体については、本稿では簡略化します)。

では「コーチング」にその要素がないかといえば、私の経験上も、また一般的な事実からみても、けっしてそうではありません。実際の仕事においては、そういう要素が含まれてくることは珍しくありません。

ではなぜ、このような区別をするのか。それは「コーチング」という新しい職業を育み、その担い手の(まさに)主要なコンピテンシーを育むためです。

別の例で説明しましょう。ノートパソコンでもスマホでもない「タブレット」という新しい端末が開発されました。メーカーや販売店は、「タブレット」ならではの特徴を、メディアや店頭で消費者にアピールします。

それは実際に使う段階において、タブレットの用途がパソコンやスマホと「厳密に線引きされる」ことを意味してはいませんね。

ユーザーにとってのメリットには、重なり合う部分があります。しかし主に「ここがいいところ」という理解が促されてこそ、パソコンでもスマホでもない、第三の選択が生まれてくるわけです。

さて、これがマーケティングや事業開発の話ではなく、倫理という枠組みで語られるのはなぜか。

それは「コーチング」を主たる業務にする人が(たとえセラピーやその他類似領域の知見をもっていても)、「微妙に重なり合うサービス領域に、どこまで踏み込み、どこから先には触れないか」を、判断するための拠り所が必要だからです。

この判断基準が個人のセンスと経験に委ねられることは、社会にとってリスク要因です。すぐれたコーチはすぐれた判断をするけれど、そうではないコーチは、安易に他の専門領域に足を踏み入れてしまう懸念があるからです。

内科医のところに極度の鼻づまりに苦しむ患者がきたら、まずは内科的な診察と対処をするでしょう。しかし患者の様子次第では、耳鼻咽喉科の受診を勧め、紹介状を書くでしょう。

「自分にできるか」を判断しようとすると、必ずグレーゾーンが出てきます。そのとき顧客獲得や売上アップといったことが意識を支配すれば、無意識のうちに「できる」という判断が誘発されやすくなります。

だから、「自分」ではなく「コーチングとは」という主語で、「できるか否か」ではなく「基本的にこういう仕事である」と定義することが大切なのです。

コーチングではないことを、まず理解する。これは、コーチングのコンピテンシーにおいて基盤をなす要素の一つといえます。